2013/06/27

山形の宮沢賢治

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かつて、山形県に宮沢賢治がいました。

貧困に負われながら働けど働けど報われない農民のために、村おこしを実践し、34歳の若さで夭折した農村指導者、松田甚次郎をそう敬称する者もいました。

今年で没後70周忌にあたります。

日本農業の変革を余儀なくされる現代にとって、松田の目指した“土つくりの農業”、“共に働くこと”、“生活と芸術”が正しかった事が時を経てようやく証明されてきました。

松田が恩師・賢治に捧げた実践記録「土に叫ぶ」は、当時の農民に絶大なる支持を得てベストセラーとなりました。

そんな松田甚次郎の功績を称えるべく、山形の若者の手によって今年amazonより電子書籍として、絶版となって入手困難だった「土に叫ぶ」が復刻されたりもしています。

今こそ山形が生んだ偉人・松田甚次郎を再評価すべき時なのではないでしょうか。

【松田甚次郎略歴】

松田甚次郎は明治42年、稲舟村鳥越(現・山形県新庄市鳥越)生まれの農村指導者。

松田家は、古くは当地方の領主鳥越氏の家老を努めた家系で、父甚五郎は郡会議員なども勤めた。

甚次郎に転機が訪れたのは、盛岡高等農林終了間際に、花巻の宮沢賢治を訪ねた時です。

高校で学んだ知識を生かし、合理的な農業を目指す甚次郎に対し、賢治は

1、小作人たれ 2、農村劇をやれ

と教えます。甚次郎はそれを生涯の実践課題とする。

甚次郎は村に帰ると、父に六反分の田を借り小作農民の生活に入るかたわら、村の青年を集め鳥越倶楽部を結成し、演劇活動を始める。

一方甚次郎は、農業恐慌により疲弊していく村の生活を守るために、自給自足的農業経営を実践、村に消費組合などを組織し、昭和7年には村に最上共働村塾を設立し、全国から青年を集めた。

昭和8年には、第1回日本篤農青年大会に参加、そのときの実践報告が注目され、有栖川宮記念更生資金を受け、これで鳥越隣保館を建設する。

昭和13年、実践記録「土に叫ぶ」を刊行。大ベストセラーとなる。

これがただちに、東京有楽座で劇化上演されたこともあって、甚次郎の名は全国に知られるようになった。

甚次郎は全国から村塾に訪れる人々への対応と講演活動のため東奔西走の日が続き、昭和18年8月、疲労と病気のため死去。

38歳で亡くなった賢治より若い34歳で、土に帰った。

【情報提供者】:土に叫ぶ振興会代表 斎藤剋範(山形県山形市在住)

なお、Amazonの詳細サイトは、以下をご覧ください。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00DJAGR6Y/



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